『骨壷のこと』水上勉1996年6月
私の骨壺は、生きる日々のよろこびの所産であって、決して自分が入りたいと願う壷ではない。私だって死亡すればどんな壷に入れられるかわかったものではない。あの味けない葬祭業者のもってくるチャチな壷に入ってしまうかもしれない。けれど、生きているうちは、断固として、あんな痰壷のようなところに入りたくないと願って、足もとの土をかためて悲願の骨壺つくりをあそぶのである。これがじつに楽しいのである。つくっているうちに、入るのがいやになるほど骨壺つくりはたのしい。人は死ぬまでに砂糖が梅干かアイスを入れて楽しむらしいが、私は何も入れずに眺めくらしている。本来無尽蔵、中有風露香ということ ばがあるかどうかしらないが、空っぽの壷でも思いようによっては中味に風露が充満しているのである。
『水上勉先生と骨壺』角りわ子2004年6月
水上勉先生が逝かれてから、三年の月日が経とうとしている。私が先生に導かれ、この信州の勘六山で制作をはじめてから早十四年。先生が亡くなられてからもここに留まり、この地の土を掘り、焼き物をつくり続けているが、今になって、先生の作品、思想、人生、人柄、、、そのすべてが一体となり、一つの偉大な作品のような人であった、とつくづく感じるのである。本当に大きな大きな人であった。先生の思想のほんの一部ではあるが、足もとの土をかためて骨壺をつくる、このことを静かに静かに受け継ぎ、つくり続けて行きたいと思う。禅の六祖慧能が言った「本来無一物」という言葉を、敢えて「本来無尽蔵」と愉快げに言いかえられた先生の精神、骨壺をつくり続けることで、それを少しでも伝えていければ、と心から願っている。先生はご自分でつくられた織部の骨壺にしっかりお入りになり、富士山麓の、文士ばかりが集まるお墓におさまられた。今頃、お隣で休んでおられる、川端康成先生や江戸川乱歩先生と話がはずんでいるのかなあ、、、織部の骨壺のことを思うと、いつもそんな愉快な想像が浮かんでくるのである。

1919年 |
福井県生まれ |
9歳 |
京都の仏門に入る |
17歳 |
僧院を脱走。以来貧困と彷徨の生活を続ける。 |
40歳 |
『霧と影』でベストセラー作家になる。代表作は『雁の寺』(直木賞)『五番町夕霧楼』『越前竹人形』『飢餓海峡』『一休』(谷崎賞)『寺泊』(川端賞)『金閣 炎上』など多数。 |
1992年 |
長野県の勘六山に移り住み、執筆活動を続ける。他に書画、骨壺を制作。 |
2004年9月8日 |
勘六山にて死去。 |
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午前10時半〜
いずみ苑では、12月22日に、忠臣蔵・・・赤穂浪士の討ち入りとかけて、蕎麦打ち茶会をいたします。
一年の無事を共に喜び合いましょう。